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[私の履歴書] 転職で天職にたどり着くまで。

sitateya@md.pikara.ne.jp
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私の名刺の肩書きには「コピーライター」とあります。
コピーライターは私が幼いころから望んできた職でした。この肩書きで仕事をして15年ほど。コピーライターが天職といえると信じています。
そんな私がフリーランスコピーライターとして独立するまでをまとめてみました。
自惚れ、挫折、再起・・・。いろんなことがありましたが、これまでの道のりには「なりたい自分」を目指した轍があります。
きっとだれもが、夢を実現するためには平坦ではない道を辿るのではないでしょうか。
長くなりますが、ご自身の体験に照らし合わせながら、ぜひ読んでいただきたいと思います。

なりたい自分像を思い描いていた10代の頃。

コピーライターという職で食べていく。

私が自分の仕事を決めたのは高校3年生のときのこと。
雑誌で見た一枚の広告に心惹かれたことがきっかけでした。

調べると秋山晶というコピーライターが書いている。しかも、テレビCMで好きだった「時は流れない、それは積み重なる」というウィスキーのコピーも同じ秋山晶さんが作ったと知り、こういう仕事がしてみたい!と思ったのでした。

キューピーマヨネーズ大陸横断の旅シリーズが大好きでたくさんスクラップしていました。

好きなことを仕事にしたいと思うように。

小学生や中学生のときは、詩人になりたいと思っていました。
何冊ものノートに悩みや思いなど心の叫びを書き殴っていました。笑

あるとき、読ませてほしいと言われた友人にノートを渡すと想像以上に感動してくれました。
そのうち、いろんな人から読ませてほしいと言われるようになり、
私の詩集は休み時間のたびに友人間を行き来していました。
気持ちや想いを言葉に託して表現することが楽しくてたまりませんでした。

今思えば、これが私のクリエイティブの醍醐味を感じた原点だったような気がします。

中学時代に影響を受けた銀色夏生さん。大好きで新刊が出るたびに購入していました。

コピーライターは商業詩人?

詩人になりたかったけれど、どうやったらなれるのか、なり方が分かりません。
大好きなキューピーマヨネーズの広告を見ていると
コピーライターって、詩人ぽいな。と思い始め、
だったら、コピーライターになろう!と思ったのが中学生の私。

でも、コピーライターってどうやったらなれるの?
必要な資格はあるのかな?
ひとまず広告を作る会社に行けばなれそうだ。
でも、地元は田舎なので、そんな会社もない。
東京に行けばなれるかもしれない。
といった具合。

高校生の私はとにかくコピーライターになれる道を模索していました。

新聞広告に見つけた地元コピーライターの存在。

高校三年生。進学か就職かを決める頃、私は学校でもコピーライターになりたいと言ったのかもしれません。ある日、英語の先生が授業の終わりに新聞の切り抜きを持ってきてくれました。
「こんなのあったよ」と。

それは地方新聞にあったちいさな記事広告でした。
コラムの最後には「コピーライター ○○市在住 田中香子(仮名)」と書かれてあります。

○○市は私が住む県庁所在地。
こんな田舎でも、コピーライターという仕事をしている人がいるんだ!
夢がぐっと近づいた気がしました。

私の夢を覚えて新聞の切り抜いて持ってきてくれた先生にお礼を言い、高鳴る胸を押さえながら自転車を思いっきりこいで家路につきました。

電話帳で探し出し、弟子入りを志願。

家に帰ると、電話帳を引っ張り出し、○○市の田中香子さんを探します。
3件見つけ出し、1件ずつ電話して聞きました。

「コピーライターをしている田中さんのお宅ですか?」
そして3件目で「そうです」という答えが返ってきました。
色々話すうちに、私の熱意が伝わったのか会ってもらえることになりました。

後日、私は自分が書き溜めていた詩集などを持参して約束の場所に行きます。

会ってもらいたかった理由のひとつは、弟子入りを志願するためでした。
書く仕事に就く最短ルートだと思ったのです。

けれども田中さんは私のノートを見た後にこう言いました。

「あなたの書きたいという気持ちはよくわかりました。でもまだ早い。
4年間、大学へ行ってもう少し勉強してきてください」

両親に大学進学を反対されていることを伝えると、「私が説得してあげます」とも言ってくれました。

実際、田中さんは電話で母に対して、娘さんの可能性に掛けてほしいと説得してくれました。

実践型の大学で学びたいと両親にプレゼンテーション。

それから、私はずっと行きたいと思っていた大学について両親にプレゼンテーションします。
県外の私立大学。芸術大学のため学費も高かったのですが、座学が多い大学のなかでも、創作を中心にしており、実践型であることが魅力でした。

今でも強烈に覚えているのは、父が言った言葉。
「やりたいことはわかったけど、そんなところ出て、作家にでもなれるんか」。

昔気質の職人である父は、コピーライターという仕事がどういうものかもわかりませんし、私も丁寧に説明できるほど仕事のことを理解できていませんでした。
そもそもなれるかどうかも分からない…。
けれど、自分の書きたいという熱情に抗うことはできませんでした。

「じゃあ受けるだけ受けてみぃ」
ついに、父のほうが折れました。
「やってみたらええが。その代わり、受験するのはその大学だけだぞ」と。

結果的に合格通知をもらい、私は念願の大学へと進学します。
後から聞いた話、親は受からないだろうと思っていたとか。
記念に受験すれば気が済むだろうと思ったようでした。

スキルを身に付けたい一心で無我夢中だった20代。

就職超氷河期世代で就職できぬまま大学を卒業。

私が大学4年を出て就職しようとした2000年、新聞には「就職超氷河期」という文字が踊った時代でした。有効求人倍率は0.5%ほどで、周りの友人たちも就職できずにアルバイトを続けた人も少なくありませんでした。

大学まで出してもらったのに、就職できないまま、社会へと放り出されてしまったのです。

私は書く仕事がしたいと、就職先は広告代理店や制作会社、新聞社などにこだわりました。しかも、営業ではなくクリエイティブ枠。しかし、未経験・新卒での採用はほぼないに等しく、結局就職できぬまま、実家に帰ることになったんです。

雑誌を買って直談判するも、未経験はダメと断られる。

「こんなことがしたい」、「こんなものを作りたい!」
社会に出たことはないけれど、意欲は旺盛で田舎に帰ってからも地元の情報誌を買って編集部に電話して、「採用ありませんか」と聞いたりもしました。

「経験はありますか?」と聞かれ、「ありません」と答えると、「即戦力を求めていて、育ててあげる時間がないんです」との返事が。この言葉は何度聞いたかしれません。

大学を卒業したばかりの私に経験などありません。
経験を積まなければ雇ってもらえないのに、経験する場所がない。どうすればいいの!?
前に進みたい気持ちと社会に入れてもらえない現実のはざまで情熱だけが空回り。
あんな大きなこと言って大学行かせてもらったのに、
いつまで経っても何者にもなれない自分が悔しくて情けないと自己嫌悪の日々でした。

なんでもいいから仕事がしたい、という感覚にならないのは贅沢なのだろうか。
親元にいるから、食べさせてもらえるから、選り好みしているだけなのだろうか。

「仕事って、何のため?」「稼げたらそれでいいの?」「なりたい自分になるために仕事を探しちゃダメ?」
自室に引き篭もったまま、こんなことをずっと考えていました。

仕事をしはじめたときのこと。

結局、コピーライターの田中さんに泣きつくようにして、仕事を教わることにしました。
高校3年のときにお会いした田中さんは私の師匠となったのです。

初めての仕事は「テープおこし」。会議の様子を文字に起こしていく仕事です。
あとは“鞄持ち”的な存在で、車での送迎や打ち合わせ同行などを呼ばれたら行ってなんでもしました。
仕事をお手伝いするようになってしばらくして渡された名刺には、名前の上にコピーライターとありました。
念願の職、コピーライター。
名刺を手にした瞬間のことは、今もよく覚えています。

それから1年くらい経ったでしょうか。高齢だった師匠は現役時代からだいぶトーンダウンしていて、あまり仕事がない状態でした。
「教えてあげたいけれど、思うように仕事がなくて、ごめんね」
師匠はそう言ってくれましたが、私ももっと自分を鍛えてもらえる現場がほしいと感じ始めていました。

アルバイト経験からこぎつけた、初めての就職。

師匠の仕事を手伝いながら、アルバイトもしていました。
新聞社の地元情報コーナーのライティングを請け負っていたのです。
ある日、新聞社の取材で行ったWEB制作会社の人から「うちに来ない?」と誘われました。

仕事内容は、県産フルーツのPR。イベントの企画立案やホームページの制作、それにまつわる取材などボリュームもありますが、やりがいのありそうな仕事です。
半年間という期間限定の仕事でしたが、比較的給料もよく、私はここでいろんな経験を積んで自分を鍛えたいと思うようになりました。

師匠に話すと「よかったね。やっぱり仕事が成長させてくれるからね」と背中を押してくれました。
私は師匠のもとを卒業し、新しい世界へ踏み込みました。
私にとって初めての就職となりました。

多様な経験ができた濃厚な時間。

WEB制作会社での半年間はとにかく濃厚でした。
書くだけでなく、撮影、ホームページ制作(当時はドリームウィバーというソフトを使ってやっていた。知識も経験もゼロからのスタートだった)、イベント立案と実施…。毎日朝早くから日付が変わるくらいまで必死で働きました。

知らない世界を知り、できることが増えていく。それは私にとって成長を実感できる毎日でした。

でも、仕事に慣れてきた頃に任期満了となります。
私は働きながら、任期後のステップを決めなければなりませんでした。

会う人会う人に向けて私は、コピーライターになりたいと言っていたのでしょう。
周囲の人から、「じゃあここ行けば?」とか「これしてみたら」と言われ、情報が集まるようになっていました。そこで知ったのが宣伝会議が主催するコピーライター養成講座。

次なる私の目標は、東京に行って、コピーライター養成講座を受講することになりました。
でも、講座は土曜のみ。平日はどこかで働いきながらスクールへ通うと考えたのです。

インターネットで就職先を見つけ、いざ面接へ。

私が就職先として見つけたのは、DIY関連の雑誌を作る小さな編集部。運営母体がホームセンターなので、自社商品を使った紙面づくりをしています。
「ここに行こう!」
住む場所も決まらないまま、大きなカバンをもって面接へ行ったことを覚えています。

面接では広告の仕事がしたいこと、書く仕事をしていきたいことを話しました。
情熱が伝わったのでしょう。その日の夜に採用の電話がありました。

後日、アパートを決めるために再度上京し、部屋を決めて、コピーライター養成講座に申し込んで…。
バタバタと東京での暮らしは始まりました。

転職は、キャリアを踏み、自分を鍛えていくため。

私が東京で仕事をするにあたって心がけたのは、自分の成長のために挑戦して、指摘はきちんと受け止めようということでした。

メーカーとのタイアップの記事広告を任されていたのですが、ラフ作りから、記事作成、デザイン発注などを担当していました。

あるとき編集長は私の文章を添削しながらこう言いました。
「文章触られるの嫌じゃないの?恥ずかしくない?」

確かにせっかく書いた文章を変えられることが嫌だと思う人もいますが、そのときの私は恥ずかしいよりも、上手くなりたいと思っていたので、添削や指摘はウェルカムでした。
なぜ修正が必要かのかを考えるきっかけになりましたし、分からなければ編集長に質問しました。

「若いうちの失敗は財産になる。今しかない!」
特に、新卒で就職できなかった私は社会経験において同級生より2〜3年遅れをとっていました。だから焦っていたのかもしれません。

土曜日には青山のコピーライター養成講座へ。

平日は仕事で実践をし、土曜には宣伝会議のコピーライター養成講座へ。ここでは現役のコピーライターやプランナー、クリエイティブディレクターが講師となって、広告クリエイティブの基本や応用を実践的に学ぶことができました。

第一線で活躍する人たちが目の前で教えてくれる贅沢な内容ばかりで、やっぱり東京はちがうなぁとしみじみ感じていました。

その講座では課題がありました。平日仕事をしながら、課題の時間を作るのは大変でしたが、ワクワクしながら取り組んでいました。考えること自体が楽しいのです。

しかし、ある日、授業中に返却された課題に愕然としました。真っ赤っかのチェックが入っているだけでなく、「?」や「何が言いたいの?」といったコメントまで並んでいます。極め付けは「あなたはコピーをこういうもの、と決めつけている」とありました。

恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいでした。
プライドも傷つきました。だって、私は小さい頃から文章が上手な子だったんですもの。

秋山晶さんに憧れていた私は、コピーライターをどこかで商業詩人のように捉えていたのかもしれません。だから、ポエムのようなことを書けばキャッチコピーになると考えていたのでした。そのコピーで商品が売れるか、イメージがつくか、といった観点を全く無視した独りよがりなものを書いていたのです。

いいコピーを書いた人には先生から金色の鉛筆がもらえるのですが、私がもらえたのは半年間でたったの1本だけでした。

2度目の転職。食べていくために夢を捨てる?

東京生活も慣れてきた頃、勤めていた編集部が無くなることになり、私は転職を考え始めます。そんな折、たまたま登録していた人材派遣会社から連絡が入りました。

「ある会社の社長さんがあなたの経歴に興味を持たれている。一度会ってみませんか」と。
詳しく聞いてみると、全国展開する小売業で本社が地元。
「私は広告がしたくて東京でてきたんだけどな…」
そう思いながらも、派遣会社の人に「滅多にない機会だし、東京で会えるからとりあえず会ってみたら」といわれ、その言葉に背中を押されて、会うことにしました。

社長は60代の女社長。ニコニコした笑顔が魅力でした。
「うちで商品開発とかやってもらいたいのよね」と社長。

しょうひんかいはつ??
書くことしか知らない私に商品開発ができるのか、そして完全な小売業に足を踏み入れていいのだろうか、私は広告がしたかったのに。

そんな不安と戸惑いが言葉になって漏れたとき、社長は言いました。
「商品開発したものを全国のお店で販売する。そのためにはVMD(ビジュアルマーチャンダイジング)が必要なの。あなたがしてきた書く仕事はそこで活かされると思うわ」。

VMD、それは新しく聞く言葉でした。

売るために書く、売れるように書く。

かつて、コピーを詩のように捉えていた私。
的外れなことをいていた私は、コピーライター養成講座で、プライドをへし折られました。

キャッチコピーは詩ではない。売れないといけない、認知されないといけない。
作り手が勘違いしてはいけない。

社長と話していると、そのことが急に思い起こされ、自分を鍛えるにはいい機会かもしれないと思うようになりました。

「やります!やってみたいです!」
さっきまでの戸惑いは消え、「やりたいです!」と手を挙げていました。

前職も母体は小売業でしたが、所属していたのは編集部で事務所も全く別だったので、小売に関する仕事はまったくしませんでした。だから、これがはじめての畑違いの場所になります。

商品部に配属になり、発注、直営店やFC店への納品価格の設定、物流センターの在庫管理も行います。商品開発はメーカーとタイアップしてプライベートブランドを作ったり、新しいメーカーの掘り起こしを行うなどの仕事がありました。
また、各店舗には毎月本部からのお便りを発送していました。おすすめ商品と同時に売り場の作り方マニュアルなどを添付していくのです。

オリジナル商品を作って、売れるように売り場を作る書類やPOPを作成することは、販売を立体的にかつ多面的に見る視点を養えたように思います。

ハードワークにより、体調を崩して退職。

全国各地へ出張に行き、その土地ならではのものを見つけては仕入れ、自社で展開する。その展開方法も含めて商品部のバイヤーに委ねられている。大きなやりがいと手応えを感じられる仕事でした。
ただ、ハードな業務でストレスも多く、体調を崩してしまいます。

体重は38キロにまでなってしまい、久しぶりに会った親戚に「どこのおばあちゃんかと思った」と言われる始末。まだ29歳でした。体調を崩してベッドの上で天井を見ながら思ったのは、「やっぱり会社ではなく、自分の名前で仕事がしたい」ということでした。

以前、師匠に作ってもらった“コピーライター”の肩書きが恋しくなりました。
と同時に、売ることも学んだ今なら、的外れなコピーを書かないコピーライターになれるのでは、と思い始めました。

私は決断します。今度こそ、フリーランスとしてやっていく!と。

辞表を出して、コピーライターとして再出発。
の予定でしたが、何のネットワークも基盤もない私に仕事があるわけもなく、即無職になりました。

結局のところ、私は仕事を辞めたかっただけなのかもしれない。
起業するんだ!と大手を振って辞めたけれど、実態はそんなところでした。

複数の転職を経てフリーランスになった30代。

3度目の転職後、ようやくフリーランス。

そして、3度目の転職も農業関連の期間限定の仕事に就くことになります。

農業と商業・工業を連携させて、新しいイノベーションを。そんなコンセプトで、当時少しずつ耳にするようになった“農商工連携コーディネーター”。私の次の職はそれでした。

東京に出ていたブランクはあるものの、地元で過去に県産フルーツのPRをしていたこともあり、農業は比較的得意分野。

地域の商店とコラボして、さまざまな商品を開発しました。そして、前職の経験を活かし、自分でプロモーション。
私が手がけた商品は、地元のテレビ局に取り上げられるようになりました。

面白い仕事でしたが、この仕事にもリミットがあります。
その頃、私は30歳を過ぎていました。次こそ、フリーランスのコピーライターとして生きていかなくては。そう考えて、地元情報誌とつながり、ライターとしての顔も持つようになっていました。

農商工連携コーディネーターとライターという二足の草鞋の時代を経て、コーディネーター卒業時には、ライターの仕事のボリュームを増やしていくことに成功。
そして、ご縁が少しずつ広がりデザイン会社やWEB制作会社からの仕事をもらえるようになったのです。
ここがフリーランスコピーライターの本当の始まりです。しだいにお取引先も増え、書くことだけで食べていけるようになりました。

転職ごとに力をつけてなりたい自分へ近づく。

よく、仕事を続けることの例えとして、「石の上にも3年」という言葉を使います。
私の親も、「最低3年は勤めなさい。そしたら、面白みがわかるから」と言っていました。
ただ、私が3年続いた職場はゼロ。どの仕事も3年以内に辞めています。

転職のたびにキャリアがゼロになったのではなく、学んだことや、弱みを補うため、鍛えてもらうために飛び込んだステージであり、すべては私の血や肉になり、スキルとして積み重なっているのだと思えます。だから、私にとって転職はなりたかった自分になるために必要だったと思っています。

そして、それぞれ3年単位で続けていたら、独立はもっと後になっただろうし、独立後のキャリア形成にも影響があっただろうと思います。
嫌だからやめる、という繰り返しでは「積み重ね」にはならないかもしれませんが、転職を繰り返しながら、いろんな力を身につけ、パワーアップしていくことができるという可能性も否定したくはありません。もちろん、一社で幅広い経験が積めるなら、それもいいと思いますが。

念願だった書くことを生業にして15年。自分史上長く続いている仕事です。
書く仕事が天職だと思っています。

なりたい自分像は方位磁針。指し示す方向に向かっていけば、迷いながらもいつかたどり着くことができる。そしてどんな試練も自分の成長のためと受け入れることができると思います。

まとめ

自分の強みを見つけて伸ばしていくことが天職への道だと思います。
自惚れることもあるし、劣等感を感じることもあるけれど、大切なのはどんな状況においても自分を信じ続けること。学ぶべきことは謙虚に受け止めることで成長に繋ぐことです。
そして、目指す方向が定まっているなら、どんな経験も目標までの大切な工程。経験はスキルを磨く場と考えて。
時代の流れがどんどん早くなるいま、「続ける努力」も「辞める勇気」も両方大事。時と場合によって使い分けることが求められているように思います。

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ABOUT ME
miho
miho
仕事人/コピーライター
2000年卒の就職超氷河期世代のコピーライター。
就職できないプータローでも、夢を諦めなかったからなんとかなった。
広告代理店も新聞社も出版社も落ちたけど、社会に出てみたら小売業にもコピーライティングの仕事はあった。
座右の銘は「仕事を聞かれて、会社名で答えるような奴には、負けない」(リクルート)
「感動だけが人の心を撃ち抜ける」(アミューズ)
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